2011年05月10日

青年結集に必要なことC

またまた、期間があいてしまいました。
まあ、ゆっくりと書いていきたいとおもっていますのでよろしくお願いいたします。

昨日は、学習協の常任理事会でした。労働学校のカリキュラムについて議論が分かれて、継続審議となりました。これ自体は積極面をもっているので、今後の努力にゆだねられます。
青年への接近の角度をあまりに柔軟にしすぎたため、「それでは労働学校と言えない」という意見です。わざとずらしている訳ではないので、もう一度練り直す予定です。

しかし、青年結集と言ったときに組合から見た次世代と私の考える青年とでは、やはりギャップがあることは事実なので、この辺りは一度整理したほうがいいと思います。
すでに、40代が次世代育成の世代となっているのですから。
新婦人も40代を育成する対象にしていますし。
どこまでが、青年なのかはずーっと議論がありますが、いまだに一致した見解は見たことがありません。
私が問題にするのは20代の青年についてです。

さて、本題に入ります。現代の日本において、青年をわれわれの側に結集していくことは、相当な困難をともないます。
前回の日記で、後退の一途にある現実から出発するべきであることを書きました。

これには、賛同する意見も頂いていまして、自分達のやっている活動スタイルを正しいと正当化化する意見に対する反発です。今のままのスタイルに固執するとそのまま衰退していくしかないからです(高知県の活動のことではありません)

可能性として、当然一時的に青年がほとんどいない状態も生まれると私は思っていますふらふら

いろいろな会議の総括文章や青年論の分析も、その時点でおいての断面をいわば横に分析しているものだと思います。

それは、ある意味正しいものですし、異論がある訳ではありません。

私が問題意識を持っているのは、むしろ縦といいましょうか、一人ひとりの青年がどういう環境でどういう教育の中で、どういう青年の文化の中で育ってきたのかという面に注目をしています。
それが、世代間ギャップを生み出していると考えているからです。

すでに、私の世代でも以前の青年達とはまったく違う環境で育ってきていることがうかがえる方針が印象に残っています。民青同盟の第22回全国大会(川田忠明さんが委員長だったと思います)2中委(記憶だけで書いていますので間違っていたらすいません)において、「すすんで相談にのろう、親切・友情を大切に」というスローガンのもとで、要求運動に取り組んだことを覚えています。

普通に考えれば、人間として当たり前のことを言っているのですが、そのことが運動スローガンとして太くうちだされ、具体的に細かく実践されなければ出来ないという状況にまで、ある意味人間としての足りないもの(語意が少ないのでふさわしい表現がみつかりません)をもったまま、大人になってしまったということです。
このことは、「奪われたものをとりもどすたたかい」といちづけられて運動化していきました。

しかし、同世代の青年から見れば、今の状況を客観的に見ることが難しく、これが普通ということになります。

それから、相当の月日が流れたこととなります。

つづく
posted by 井上 at 11:48| Comment(0) | 科学的社会主義の探求? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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